常設展のご紹介

『百年の眠りからさめた翠峰庵白泉と粟賀泰雲』

 

はじめに(石川康子 / 白泉画廊運営)


 老いていく母が老人ホームに移り住んで数年が過ぎた冬のある日、誰もが経験するであろう実家の片付けに私も向き合う日がついにやってきた。  押し入れにしまってあったいくつかの古びた長細い木箱を引っ張りだした時、遠い昔の思い出が木香と共に蘇ってきた。そこには古い掛け軸や表装されていない俳句や俳画や墨絵が入っていた。それが翠峰庵白泉の俳画と彼がパトロンとして愛した粟賀泰雲の水墨画との出会いであった。
 子どもの頃、母が「この箱の中にあるのは私のおじいさんの俳画で、俳句の名人だったのよ。家には書生さんたちが出入りしていたの。おじいさんは絵が好きで、粟賀泰雲という水墨画のパトロンでもあったのよ」と語ったのを思い出す。母の言うおじいさんとは私の曾祖父でもある九州の大分県宇佐市長洲で生まれ育った和泉千治のことで、雅号を翠峰庵白泉といった。
 この日まで、一度としてじっくり曾祖父の作品や水墨画のコレクションを眺めたことはなかったが、一枚一枚手にとって広げてみると次第に私は胸が熱くなってきた。
 その中に「馬」のみごとな水墨画があった。「私は午年だから、この絵がすきなのよ」と耳元で嬉しそうにささやいた母の声が聞こえてきた。この水墨画を描いたのは上述した絵師の粟賀泰雲である。
 その翌年、母の従兄弟にあたる大分県宇佐市長洲に住む翠峰庵白泉の和泉千𠮷氏を訪れた。幕末から明治、大正、昭和の戦前まで一筋縄ではいかない日々をくぐり抜けた曾祖父の足跡を知りたい一心だったからだ。母と同様、長洲の和泉家当主にとってお爺さんにあたる翠峰庵白泉の記憶はほとんどなかったが、それでも隣の部屋からアルバムを何冊か小脇に抱えて写真を何枚か指し示してくれた。若き母の姿が写っていた。思えば、母は長洲を愛し父と一緒に従兄弟らに会いに東京から何度も足を運んでいた。
 自宅に戻って数ヶ月後、和泉家が茶箱の中に大切に保管していた翠峰庵白泉の俳画や粟賀泰雲の水墨画のすべてが私の手許に送られてきた。大事に引き継いでくれるのならば、大分よりも東京のほうがいいかもしれない、と家族会議を開いて英断したという。
 パンドラの箱を開けた私は、すぐさま自宅の一部を改装した。母のものや和泉家が所有していたおびただしい数の作品、そして他の親戚らがもっていたものが我が家に集まった。曾祖父がパトロンとなって日本全国を共に旅した粟賀泰雲の作品群も町田市の私の自宅に飾られた。こうして、自称「白泉美術館」が誕生したのである。
その日から、くずし字の解読が来る日も来る日も始まった。それは時間のかかる作業であったが、町田市民権資料館の学芸員である井上茂信先生が、翻刻を手がけてくれた。俳画は俳句の心を絵にしたものだというが、一枚の紙の上で楽しく表現し、その心を伝える俳画の世界には不思議な魅力がある。かつて、一世を風靡したであろう翠峰庵白泉の俳画と水墨画の巨匠といわれた粟賀泰雲の二人は、ようやく100年の眠りから覚めてこの令和の時代に蘇ったのである。二人の世界は見る人を必ずや魅了するだろう。

(いしかわやすこ/白泉画廊経営・(株)ビーベスト代表取締役・ノンフィクション作家)

翠峰庵白泉 (1862-1942) とは


 翠峰庵白泉は、名を和泉千治といい、文久2年(1862年)3月6日、和泉喜八とミサの三男として大分県宇佐市長洲で生まれた。俳句に絵をいれる独自のジャンル「俳画」の達人として、戦前まで全国に「翠峰庵白泉」(以下、「翠峰庵」と呼ぶ)という俳号で知れわたる。特に、絵に関して言えば、あたたかさと親しみやすさを感じる柔らかい画風で人気を得た。  戦後、その名はいつしか消え去ってしまう。それはなぜだったのだろうか。
 翠峰庵が生きた時代背景が大きく左右するので、まず、生まれ育った国東半島の西の付け根にある港町、長洲の歴史を経済の面と文化の面で紐解いてみよう。この地は、島原藩の飛び地であった。それは、寛文9年(1669)、松平忠房が長崎の島原藩主となったときからはじまり、廃藩置県まで200年間もつづく。長崎から京都に年貢米を上納するにあたり、瀬戸内海に面する港町の長洲が貯蔵庫に最適だったのだ。大分県北部を流れる駅館川の河口には、代官の出張所である「会所」が置かれ、長洲の町は「在町」といわれる城下町となった。 
 文化の面に関して言えば、文化芸能を保護した島原藩主松平侯は、飛び地である長洲や豊後高田などにも歌舞伎、人形芝居、そして狂言などを奨励した。
の歴史の中で天保4年(1833年)に、記録の上で初めて「和泉屋」という糀屋の名前がでてくるので、この糀屋が翠峰庵白泉の本家にちがいない(『百年史長洲小学校』昭和53年、p208)。翠峰庵は幼少の時から絵や俳句や習字を「坂の下」にあった寺子屋で学んだ。
 晩年、翠峰庵は長洲の文化芸能の第一人者の一人となり、全国各地を旅して俳諧三昧の生活を送る。俳諧仲間らには、京都の上田肇、俳号は不識庵、別名、花本聴秋や、大阪の小野安二郞、俳号を無名庵霞遊、山口県下関の医師西尾与三郎、俳号を三千堂其桃らがいた。
 翠峰庵にとって生涯、忘れがたい出来事は、78才の昭和6年(1931年)に「高千穂の昔は遠し雪の宮」の名吟(めいぎん)が昭和天皇に詠まれたことである。その翌年の昭和7年には、翠峰庵白泉に俳諧社から「嘱託状」(写真)が交付され全国の俳句の選者の一人となった。
 昭和10年には第一次上海事変の最中に敵陣に突入して自らの命を絶った3人の勇士「爆弾三銃士」(絵)を称える『至誠録』と題する本を編集する(写真)。その内容とは、翠峰庵が軍人や文化人らから、勇士3人をたたえる書や俳句を募り、それを編纂した本である。それを桐箱に入れて靖国神社と宇佐八幡宮に奉納したのである(写真)。表題「至誠録」を毛筆で書いたのは、俳号を皐水といった前総理大臣斉藤実であった。
 近代国家日本が世界を相手に太平洋戦争に突入したとき、宇佐市長洲もその時代の歯車の中に組み込まれていたからだ。長洲の周辺は上述したように、平坦な水田が広がり、この水田地帯に宇佐海軍航空隊の飛行場が作られたのだった。あの「永遠の0」で小説や映画の舞台になった場所である。末期には多くの若者が神風特攻隊として戦地へ飛び立ち命を落とす、悲しい場所だった。その時代の中で、翠峰庵は政治家や軍人らと交わり、俳句の宗匠として敬愛されていくのである。
 敗戦の3年前の昭和17年に翠峰庵は亡くなるが、終戦後、長洲に多くの土地を所有していた翠峰庵の家族は農地解放で土地を没収されてしまう。それと同時に翠峰庵が戦犯となった軍人らとつきあっていたことで、長洲の家にあった俳画や俳句や書を家族は茶箱の中に隠さないといけない事態になった。見つかれば焚書となるからだ。
 こうして、翠峰庵の名前はいつしか時と共に葬られてしまう。歴史の行間に埋もれてしまった翠峰庵の俳画に光を当て、もう一度目をむけることで寄り添ってみたいと思うのである。(文責:石川康子)

 

 

粟賀泰雲 (1878-1941) とは


 天才絵師、粟賀泰雲(以下泰雲とよぶ)は、翠峰庵白泉(以下翠峰庵とよぶ)と同様に謎に包まれていた。 「白泉美術館」のホームページを立ち上げて3年が過ぎたある日、1人の女性から「粟賀泰雲の孫にあたる四国に住むものです」と電話がかかってきた。彼女もまた自身の祖父のことが気になって祖父について調べていたのだ。
四国の彼女の家を訪ねに行った。直接お目にかかって泰雲について聞きたかったからである。大河内節子さんは泰雲の長男である明章(あきのり)の長女であった。彼女が私に見せてくれたのは戦前の美術年鑑である『日本名書家大鑑』(日本美術出版社、大正10年。写真)と一枚の絵はがきであった。
その本には約400名の絵師の名前がずらりと記載させていた。極めつけは、その絵師が一枚描くといくらか、いう値段まで全員につけてあったことだ。粟賀泰雲の備考欄にはこう綴られてあった。
「幼名を桃太郎。明治11年生まれる。画を好むが慈父は画学を許さず、14才の時に家を出るが、貧しさ故に師につけず独学で学ぶ。17才から地方を遊歴する。大正4年(37才)、名古屋東洋美術協会全国絵画展に出品し特選する。大正13年(46才)、日本美術協会瀑布出品。大正天皇御大典と大正天皇皇后の銀婚式に瀑布出品し7回特選。遊歴10回。官僚的因習を避けて交際を絶ち、隠士として仏画を制作中」(『日本名書家大鑑』166ページ)。
では、泰雲の値段はいくらだったのだろうか。絵師らの値段の幅は50円から1000円まであった。400名中最高値の1000円がついていた絵師は3人だけで、泰雲はその1人であった。残りの2名は竹内栖鳳とあの横山大観である。
 昭和16年5月5日、63才という若さで泰雲は亡くなる。
四国の旅のフィーナレに、大河内節子さんから一枚の絵はがきをいただいた。泰雲が昭和11年に東京上野で個展を開いたときの写真である。一緒に写っていたのはあの横山大観であった(写真)。